私自身もそうだが、
人はつい、手を出してしまう。
時間がないときは、なおさら。
時間があっても、
気づけば“やってあげている”。
ある日、
母が祖母のジャケットを着せていた。
祖母は、自分で着ようとしていた。
自然な流れの中で、
後ろから手が伸びる。
よくある場面だと思う。
施設でも同じような光景を見る。
本当は自分でできることでも、
靴まで履かせてもらっている。
それは優しさであり、
配慮であり、
サービスでもある。
でも、
平川の関わりを見ていると、
その優しさが、
何かを奪っていることもあるのではないか、と、
これまでとは少し違う見え方をするようになった。
あるとき、祖母が
一人で草むしりをしていた。
危ないから、と止められた。
その日から、
日中はテレビを見る時間が増えた。
料理も、
危ないからと控えるようになった。
少しずつ、
できることが減っていく。
そして、
気力も落ちていくように見えた。
優しさが、
ときに逆に働くこともある。
平川の関わりは、
そこが違っていた。
私なら手を出してしまいそうな場面でも、
すぐには関わらない。
よく見ている。
できることを探している。
そして、
その人が自然にできる形を整えているように見えた。
無理にやらせるわけでもなく、
放っておくわけでもない。
その間にある関わり。
それは、
植物を育てるようなものに近いと感じた。
日差しが強すぎてもいけない。
水が多すぎてもいけない。
そのときの状態を見ながら、
少しずつ整えていく。
そうして育った花は、
とても自然に、
でも確かに変わっていく。
「関わり」は、
派手ではない。
すぐに結果が見えるものでもない。
でも、
見えないところで作用している。
地上に見える変化だけでなく、
その下にあるものにも働きかけている。
体だけではなく、
心の部分にも。
無理にやらせない。
やりすぎない。
そして、
「待つ」という関わり。
その人の中に、
「やってみようかな」と思う感覚が生まれるまで。
その意思とともに動き出したとき、
変化は、
とても強くなるように見えた。
これまで長年動かなかった人が、
自分から動き出す場面を見てきた。
変えようとするほど、
変わらないことがある。
でも、
関わり方が変わると、
人は自然に変わっていく。
自分自身にも、言い聞かせているような感覚がある。
文:渕之上