私はこれまで、理学療法士として、
身体機能の回復や、歩く練習に関わってきた。
申し送りでは、
疾患名や、歩行の状態がまず共有される。
認知症、左麻痺、骨折。
気づけば、
「左麻痺の人」といったように、
人を“病”で捉えてしまう場面も少なくなかった。
リハビリといえば、
身体に特化した訓練や、歩行練習。
それが私の大切な役割だった。
実際に必要とされている場面がほとんどだった。
そして多くの人もまた、
それをリハビリだと受け止めている。
その身体機能の回復を目指したリハビリは、ずっと変わらない。
私は訪問リハビリも経験したが、
自宅や施設に退院してから何年も経った人でも、
変わらないメニューが引き継がれ、続けられていた。
リハビリの内容と同じように、
生活にも大きな変化はなく、
どこか画一的な日々。
私が担当していた人の多くは、
リハビリや受診以外、外に出ることは少なく、
日課は、近所を少し散歩するくらいだった。
身体機能は、良くて維持。
多くは、少しずつ衰退していく。
年齢を重ねるほど、
それが当たり前のこととして、
受け入れられている。
「何かしたいことはありますか」と聞いても、
返ってくるのは決まって、
「歩けるようになりたい」
それ以上は、出てこない。
したいことは、
身体が良くなってから。
その前提の中では、
やりたいことは生まれにくい。
だから、
身体を良くすることだけが目的になっていく。
“したいことがない”のではなく、
考えたことがなかった。
麻痺がある。
一度損傷したものが、
完全に元に戻ることはない。
その中で、
身体機能や数値の変化に偏った捉え方と、
その改善を追い続ける状況に、
どこか限界を感じていた。
これでいいのだろうか、と。
平川の関わりを見て、
はじめて違和感の正体が見えた。
自分が、
人を“人”としてではなく、
“病”として見てしまっていたことに気づいた。
平川は、違った。
疾患ではなく、
その人がどう生きてきたのか、
これからどう生きたいのか。
何を大切にしているのか、
どんなことに心が動くのか。
そうしたものも含めて、
その「人」を見ていた。
「僕はね、いつも申し送りって、あまり参考にならないんだよね」
と、笑っていたこともあった。
私が見てきた多くの人は、
「身体」というテーマの中で、止まっているようにも見えた。
それは、私たちも、そして当事者も、同じだったのかもしれない。
そうならざるを得ない前提や、環境の中で。
でも本当は、
その先にあるはずの生活がある。
楽しみや、満足や、
その人らしい時間。
それは、
私自身も想像できていなかったものだった。
関わる視点が変わると、
その先にある生活の見え方も変わる。
平川の関わる場面では、
その先の生活が、現実として立ち上がってくる。
長く同じ生活を続けていた人が、
少しずつ外に出るようになり、
やりたいことを口にするようになっていく。
関わりの中で、
視点が変わり、
きっかけが生まれていく。
気がつくと、
表情が変わり、
言葉が変わり、
行動が変わっていく。
ある人が言った。
「心が動けば、体が動くんですね」
その一言で、
ずっと引っかかっていたものが、
すっと腑に落ちた。
それまでにも、
どこかで違和感はあった。
身体だけでは足りないことも、
その先に何かがあることも、
なんとなく分かっていた。
でも、
どうすればいいのかは分からなかった。
平川の関わりを見て、
はじめてそれが現実として起きているのを見た。
その先につながっていく様子を見て、
ただ大事だと思っていたことが、
確信に変わっていった。
思っていた以上に、
ずっと大事なことだった。
私自身も、そこに気づくまで時間がかかった。
人は、身体だけで動いているわけではない。
体だけを見ていても、
人は変わらない。
文:渕之上